2008年11月9日日曜日

初めてずくしと新たなるライバル・・・

 2年生では、初めてのJリーグ観戦をした。子どもたちは練習や試合以外で仲間全員と一緒でることもあり、すごく楽しそうであった事を覚えている。親父達はというと飲んだくれていた。これをきっかけとして、この後、何回もJリーグ観戦に行く事になった。
 初めての合宿は、土日を使って、愛川ふれあいの村で行った。しかし、この合宿中は雨が降り、グランドが使えなかった。折角来たのにサッカーが出来ないのかと思っていたら、体育館で紙風船を使ってのサッカー遊びをやった。子どもたちは楽しそうであった。こういう臨機応変な対応が出来るコーチには敬服した。


 外部のコーチにサッカーを教わることもあった。


一つは、バーモントカップフットサル教室でマリーニョさんに亀ヶ池八幡宮近くののフットサルコートで足技を中心に教えてもらった。マリーニョさんは相手を騙すテクニックを教えていた事を覚えている。中には卑怯とも思える技もあった。この教室には相模原地区の色々なサッカーチームの色々な学年がきていて、最後にフットサルミニゲームをした。マリーニョさんの教えと色々な学年とのミニゲームで息子には良い勉強になったみたいだった。このコートは息子が通っていたクーバーコーティングで使用されていたコートであった。(現在はクーバーでは使用されていない。)





 もう一つは、横浜・F・マリノスふれあいプロジェクトであった。場所は横浜の何処かの体育館だった。この教室では、基礎練習とミニゲームが行われた。ミニゲームで2人上手い子がいた。親父・お母さんたちの間では、彼らは3年生という話をしていた。そんな中、一人の親父が会場に来ていた自チームとは別のチーム父兄と話していた。その人は大学時代の友人で、今はS柳SCという大和のチームのコーチをやっているとの事であった。更に、うまい2人は2年生で、一人がそのコーチの息子と言う事であった。これをきっかけとして、S柳SCとは何回も試合をする事になった。また、そのコーチの息子はその後、湘南ベルマーレに入ったと言う事である。


 こんな事もあり、2年生の息子に教わった事は、「サッカーの楽しさ」である。

2008年10月26日日曜日

初めて貰ったイエローカード

 息子が初めてイエローカードも貰ったのは2年生のリーグ戦の時だった。
 場所は、ホームグランドである共和小学校、主審は、K和SCのEコーチ(事務局)であった。
 2年生でイエローカードは普通は出ないが、息子は貰ってしまったのである。
 この時、俺は、小学校の息子の教室である2階のベランダからビデオを撮っていた。
 イエローカードは悪質なファールに対して出るものであるが、息子はそんな悪質なファールをやったのではなく、FWである相手がボールを持っていたので、守備の為、追いかけていたのだが、相手が急に止まり、体が大きくポッチャリタイプの息子は車と一緒で急には止まれなかった。この為、覆いかぶさってしまったのである。
 多分、主審が違う人であれば、単なるファールだったと思う。
 試合が終了し、グランドに戻ると、息子はコーチの横で、ピーピー泣いていた。俺は、「ピーピー泣いてるんじゃね~!」と言ってその場をコーチに委ね、立ち去った。しかし、別にイエローカード、それを貰った息子や出した主審に対しての怒りの気持ちはなかった。
 この時、主審をやっていたコーチは、少年サッカーでは色々な事をやっている人だったが、数年後、一緒に飲む機会があって、この時のイエローカードのことを聞いてみた。
 この人は、息子は体が大きいため、高学年になるとイエローカードに悩まされると思い、こういうことでもイエローカードが出されると言う事を息子に知らせたかったと言う事であった。
 まさに先見の明があり、息子はこのイエローカードをかわきりに小学校年代で9枚のイエローカードを貰うと言うイエローキングの座を掴み取ったのであった。
 ただ、この9枚のイエローカードの中で4枚は息子がボールを持っていて、後ろからタックル・体当たりをされて相手が転び、それが原因?で貰ったものなので、誤審のイエローカードである。真にイエローカードと言える行いは、6年生の時、相手DFを追いかけて後ろから相手の両肩を掴んで引き倒した1枚である。これは、イエローというよりレッドに近い行為であった。ただ、息子は理由なくこういうことはやらないので、後から、やった理由を聞いた所、自分がボールを持って相手ゴールに迫っていた時、そのDFが、掴むだけではなく、しつこくわき腹にひじうちをして、ボールをとったことに対する報復だったという。
 これに対して、俺は、「卑怯な事をやられて、ファールで対抗すると卑怯な相手と同じレベルに下がってしまうぞ!お前のレベルはもっと高い!その事を自覚しろ!」と言った。
 まあ、そんな事もあり、小学校の高学年にもなるとイエローカードを貰っても、主審に背を向けて「ケッ!」とかいうくらい動じなくなった。
 しかし、相模原の審判のレベルの差は激しく違い、平均すると横浜、川崎と比べると低い、息子の年代で市外、県外へ出て、試合したが、相模原市内のようにイエローカードやファールは出なかった。へたくそな審判は自覚して引退するか、反省し市外の試合をみて勉強などしてほしい。4級審判資格を持っているから、ただ単に審判をやれば良いという訳ではない。審判と言う立場から、サッカー少年を育成するという覚悟をもってやって頂きたいものである。少年サッカーに関しては、周りの大人(指導者、審判、保護者)全てが、育成者であるという気持ちを忘れてはならない。育成は指導者にと思う大人は不要なので、少年サッカーに関わってほしくないと思う。
 2年連続で神奈川県選抜で優勝、3年目の今年は準優勝というように神奈川県内でも逸材が多いが、審判がヘボでは、市内大会も面白いものにはならないし、逸材も育たない状況になってしまう。
 試合中の保護者やコーチのヤジも同様である。

2008年10月2日木曜日

ライバルSの口

 一番最初に練習試合をした相手が、小学生年代のライバルSの口であった。
 Sの口には、1年生の練習試合をかわきりに2年生の新人戦、スポ小、武内記念フットサル、SFAカップと連続して敗戦させらた。この後、最初に勝ったのは、2年生も終わりに近い2/29の練習試合であった。
 しかし、チームとしては、K南ジュニア杯をかわきりに5回の優勝という好成績を残した。
 この年代での好成績の理由の一つにはRさんという勇気のあるゴールキーパがいたことが、まず、挙げられる。この年代で、失点が少ないのが、その証明である。
 この後も4年生の暑い夏の試合で、川崎の強豪、N野島に7点という大量失点を記するも、その他には、やはり失点が少ないと言うのが息子の入っていたチームの特徴でもあった。
 話を元に戻し、Sの口は、こちらが先制得点をするとすぐ巻き返すという底力のあるチームで、今回は勝ったと言う試合を何度もひっくり返されて、親父ーズの反省会では、終始、Sの口の話で盛り上がった。

2008年9月21日日曜日

初めての優勝(K南ジュニア杯)

 キッズたちの初優勝はK南ジュニア杯だった。
 このK南ジュニア杯は、三栗山スポーツ広場の上にあったグランドで行われた。

 この試合は、JCOMという相模原のケーブルテレビでも放映された試合だったが、最初は晴れていたのが、急に曇りに変わり、遂に雨が降ってきた。降り始めはまだ試合をやっていたが、雨の降りが強くなってきたの中断されて、テントで止むのを待っていたが、あっという間にグランドが湖状態になり、そのまま中止、そのときまでの成績でキッズたちの優勝となった。
 写真は帰ってきた後、相模原にある一流会社の体育館で撮った写真である。ここはシャワー室が完備されていた為、子どもたちはシャワーを浴び、温まることが出来た。Hメパパ、ママに感謝である。
今に比べると子どもたちは皆小さくて可愛かった。
ホームページを立ち上げようと思ったのも、この優勝がきっかけであった。

2008年9月2日火曜日

いよいよ小学校2年生

最初に力を入れ過ぎた為、力尽きた感があった。
これからは、あまり力まずに行こうと思う。

さて、息子が2年生になった頃の話である。
この頃、息子の学年で強かったと思ったチームは、Sの口、M大野、この後に続くのは、MSC、S模野SCかな~(あくまでも俺の主観であるので、関係者は気にしないでください。)
俺にとって、息子が1年生の時と2年生の時との圧倒的な違いは、親父達と知り合った事である。
新人戦、あじさいカップと優勝できずにいたが、三栗山スポーツ広場で行われた上南ジュニア杯で優勝したので、親父たちの顔みせを兼ねてクックというK和SCのOBが働いている居酒屋で祝勝会が開かれた。この祝勝会では、歩いて帰れると言う事もあり、朝5時まで飲んでしまった。
これから暫くの間は、サッカーど素人親父たちとサッカー経験者親父たちの熱いサッカー談義が開催されたのであった。
馬鹿親父たちは、日曜日に優勝すると月曜の朝まで飲み明かし、月曜日は二日酔いが続いたので、遂には賢明な母たちも怒ってしまった。その為、親父たちは、反省会という名の会合を開くときはいつも試合中に密かに連絡を取り合っていた。
ただ、親父たちのこの熱い情熱のためか、2年生の時、子どもたちは、優勝5回、準優勝1回といった素晴らしい成績を挙げたのであった。

2008年7月15日火曜日

1年生の息子から教わったこと

 これは息子からと言うより、コーチからだと思うが、とにかくサッカーに関してはコーチに任せる。そして、息子とコミュニケーションをするために、パスの自主練習の付き合い、サッカーに関して思っている事を聞く事(この場合、押し付けはいけないのだが、この段階で、ばか親の俺は理解していなかった。)、コーチにこう言われたけど判らない事などを聞いてあげる事が必要だと思っている。サッカー経験の乏しい親は、訳の判らない事を息子に言う前に、コーチの言っている事を理解することが重要であると思う。
 しかし、コーチとて人間である訳だし、サッカー経験に関しても、GK経験者、DF経験者、MF経験者、FW経験者により、サッカーに関しての見方は違うと思うし、ポジション以外でもコーチングに関しては、勉強している内容・方法により十人十色である。親はこどもが判らなくて悩んでいるような時は、コーチにそれとはなく相談してみるのも手である。
 サッカーに限らず、人と人とのコミュニケーションは大切であると思う。
 それまでは、学生の頃からの友人や会社関係の友人しかいなかったが、息子がサッカーを始めてからは、途端にサッカーキッズの親父と言う仲間が出来た。人と関わりの広がりを経験できた。これも、息子のおかげと言ってよいと思う。
 この仲間と言うのは、親父達はチーム・トレセン等があり、息子はチーム・トレセン・スクール更に対戦相手というように広がりを見せるものでもあった。

 1年生の息子から教わった事:人と人の関わりの重要性

2008年7月2日水曜日

今の知識があったら(小学校1年生)

 今でこそ、小学校5、6年と相模原選抜(これは、相模原トレセンの中から試合によって選抜され、試合に出た。代表的な試合は、神奈川県のさわやか杯(2連覇中)、関東選抜サッカー大会(フジパンカップは、前半、後半は全て違うメンバーが原則であるので、メンバーは最低22人)であるが、小学校1年生の頃は、パス練以外は、あまり息子の役に立たなかった。
 もし、今、奴の弟がいたら、面白くしながら、できるだけ強く打ったボールのトラップができる事を意識した練習をする思う。トラップは、ゴールデンエイジ前のほうが身に着く。
 世の中、誤解があると思うが、ゴールデンエイジは自主的なスキルが身に着くのである。トラップのような他己的なものは、もっと小さいときからの経験が大きい。これは、俺が、北海道の富良野市生まれで、スキーで転ぶ事は思いつかない事と同じである。(普通の人も歩いていて転ぶとは思わないでしょう。それと同じなのである。)
 もし、貴方の息子が、3年生かそれ以下であれば、パス練を欠かさず行い、少しづつ強い球に慣れさせたほうが、4年生以上なった時、技術の差が出てくると思う。但し、素質が普通の子であれば、スクールなどに入れ、サッカーの技術を教える事も必要である。少なくとも、4年生でろくなトラップが出来ないのにトレセンに入るなんて愚かな事を考える親馬鹿にはなるべからずである。
 もし、息子がこの時期に団子の中でボールを取る事を覚えていれば、更に上の技術を身につけていたと思う。現在、息子の弟は俺も家内も作る事は不可能なので、サッカーの天才時は別のところで現れるのだろうと思う。

2008年7月1日火曜日

小学校1年生の頃(友達)

 さて、ここまでは、息子から何も教わっていない(当然)。しかし、後から考えるとこの時のコーチの指導方法からは教わることが結構ある。
 1年の時の主要メンバーは、Yト、Hメ、Tヤ、息子の4人である。この4人のうち、Tヤを除く3人は、6年生まで一緒にサッカーをやった仲間であるし、メンバーが4人しかいなくて、試合にも出れないのでは?と悩んだ仲間である。Tヤは残念なことに途中で関西方面に引っ越してしまったが、サッカーは続けていた。
 話を元に戻すと、結局、サッカーが好きなこの4人は1年生の時にメンバーが増えたり減ったりする変化の中でもサッカーが好きになり、続ける事をさせてくれたのは、コーチがサッカーを好きでそれを上手く子ども達に伝えられた結果だと思っている。子どもの親としては、感謝に絶えない。
 今になって、スポーツが上手くなる為には(サッカーに限ったことではないが)、指導者の力が大きいことを痛感させられている。是非、Yト、Hメ、Tヤ、息子達が高校サッカー選手権に出て、一緒に応援したいものである。
 この子らの1年生の頃の俺の印象は、
Yト:上手い、周りが良く見えている。性格は温和で人当たりが良い。キャプテンタイプ
Hメ:物凄く優しい気持ちを持っているきかん坊、周りをリードする。キャプテンタイプ
Tヤ:だみ声。周りにあわせるのが上手い。自己を持っている。副キャプテンタイプ
息子:やさしい。協調性があり、争うことが嫌いだが、しつこい嫌がらせには反撃する。副キャプテンタイプ
 この中で、俺の予想に反してキャプテンになったのは、Tヤだけだと思う。
 実は、この中でYト以外は同じ幼稚園で一緒に幼稚園のスポーツクラブでサッカーをやっていて、小学校に入ったら一緒にサッカーをやると約束していたことを知るのは、俺が、サッカーに顔を出す彼らが2年生になってからの事であった。それまでは俺がサッカーをやらせていたと思っていた。
 そんな小さい頃の息子とサッカーボールを持って、相模原公園に遊びに行った時、縁があるとしか言いようがない出来事があった。それは、小学生の中学年と高学年とおぼしき子が2人でサッカーのアップ(片方がボールを投げて、片方がキックやヘディングで相手に返す)をやっていた。その時、2人が上手いので、サトに速くああいうようになりたいな。と言った。
 息子は目を光らせて、彼らから目を離さずに「うん」と言ったのが今でも印象に残っている。
 後からコーチに聞いた事だが、なんとこの2人がサトのコーチの2人の息子であった。本当に世の中は狭いと感じた一瞬であった。

2008年6月30日月曜日

小学校1年生の練習試合

 小学校1年生の頃は、人数が少ない事と先輩との関係や1つ上の学年のサッカーを見たり、一緒にやったりする為に、2年生と一緒に行動することがほとんどであった。1つ上の学年は既に15人ほどいたので、試合に出ることはほとんど無く、見てる(見ていないことがほとんどで下を向いて穴を掘ったり、同学年の友達としゃべったり)ことがほとんどであった。
 しかし、1つ上の学年も強いチームで、一緒について行っただけで、メダルを貰えたりしたので、嬉しそうであった。息子に自分で取ったメダルでなくても嬉しいのか?と聞いたことがあったが、確か嬉しいと言っていた気がする。
 2年生の試合に出ても、足が特段速い訳でもなく、団子に突っ込んでいけるでもないが、体格は2年生に入っても中以上であったので、まさにウドの大木状態だった。たまにボールが来ても空振りはするはで、ほとんどボールには触れなかったと思う。
 そんなこんなで、1年生から2年生になるちょっと前(2月頃)Sの口というチームと練習試合が行われた。この時は、メンバーが10人いて、やっと試合ができるようになった。後1人でメンバーが揃うと嬉しくなったことを覚えている。
 この試合のちょっと前に、大容量のバッテリーが付いたビデオカメラを安く入手した俺は、サトの試合を撮りに行った。思ってみれば、これによって俺がこのチームのビデオ班になったのだった。
 話は元に戻り、試合は、団子状態での1進1退から相手にゴールを決められ、あっという間に1-3になった。 しかし、面白いのは、この時の相手のキーパーはその後、相模原トレセンに入り、センターバックとしてキーパーになると言った子(これからRさんと呼ぶ)の前を守った子である。この時、息子は、同トレセンでその子の横でサイドバックを勤めていた。また、相手チームのキャプテンは、同様に一緒にプレーしたトレセンのキャプテンであり、息子とは、サッカースクールのクーバーでとても仲良くなった子でもあった。強いチームだなと思ったが、これがまさか6年間続き、お互いに切磋琢磨できるライバルチームになるとはこの時は思っていなかった。実は結構最近知った余談では有るが、この試合のお互いのチームのコーチ、Rさんの父、と俺の年齢は一緒であった。 この試合の一番印象強い事は、龍さんの得点シーンである。何回目かの相手のシュートを見事にセーブした龍さんがパントキックをした。ヒュ~~~トントントン、コロリ。なんと直接ゴ~~~ル。相手のキーパーもまさか球が飛んでくるなんて思いもよらなかったみたいである。これは、Rさんが小学校1年生の時にやっちまったゴールである。全く、子どもに度肝を抜かれた面白い試合だった。

2008年6月29日日曜日

小学校1年生の頃

 息子は大きくてころころしていたな~。このころは類に違わず、チームは団子サッカーだったが、奴は団子の中には入っていけない子だった。内股で大きい割にはすぐこけた。
 母が運営委員をやっていたが父はあまりグランドには行かなかった。
 チームの人数は4人→8人→4人と変化し、これでは、試合には出れないな~と心配したりもした。
 この頃母は、このチームは強いってことになっているという噂を聞いてきた。幼稚園時代の子の母たちからの情報だと思っていたので、「何でやっと10人になったばかりのチームが強いんだ。そんな訳ないだろ」と笑い飛ばしていた。
 息子はサッカーが好きになっていたようで、風呂でサッカーについて話すと今日はパスをしたとかドリブルをしたとか楽しそうに話していた。
 1年から2年に上がる前にやっと10人になり、練習試合ができるようになった。このとき対戦した相手がその後6年間のライバルになるとは誰もこの時点では思わなかったのではないか。
 この試合では、チームのゴールキーパーが決定した。なぜならこの子はキーパーがやりたいと最初から言ったという。ゴールキーパー選びでは、大抵のチームが迷うのだろうが、このチームはそれがなかった。また、このキーパーがセンターバックとしてサトを指名したのでサトはセンターバックになった。1年生の時点では、不思議なことにポジション争いが全くなかった。
 しかし、俺は、この時は息子のバックがあまり気に入らなかった。なぜならサッカー素人の俺はバックでは得点に絡まないので、息子がサッカーを好きではなくなるのではないかと思った。また、この当時はまだ親ばかだったので、得点に絡まないと俺が面白く無かったなのかもしれない。
 ちなみに今は、親ばかではなく、馬鹿親である。この2つの定義を俺なりにしていて、
 親ばかは、子の実力も考えずに子が一番と考え、試合も見に行かずに何で自分の子が・・・と思う親。  馬鹿親は、子の実力を把握はしているが、何とかそれ以上にしてやりたくて子の試合を頻繁に見に行き、勇気、元気とプレッシャーを与える親である。
 まあどちらも子どもの為に馬鹿になれるのだから良いが、親父には、ことサッカーならば馬鹿親になることを薦める。息子とのコミュニケーションが格段に図れることになること間違いなしである。特にサッカー素人父は馬鹿親になるべしである。

はじめに

息子もはや中1。小学校時代は相模原で、中学校からは町田でサッカーをやるようになった息子に教えられたサッカーに関する情報を残そうと思う。
ちなみに息子がいたチームの成績はhttp://members.jcom.home.ne.jp/apuro/index.htm
で見ることができる。